聖書 ローマの信徒への手紙2.17-3.20
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。」(28節)
この御言葉に触れる度に、こう思わされる。もし、この「ユダヤ人」という言葉を「キリスト者」に置き換え、「割礼」を「洗礼」に置き換えて読むならば、これは自分に言われていることなのではないか、と。キリスト者としての自分が問われているのだ、と。
では、「外見上」ではなく、「内面が」(2.29)キリスト者とされている者とは、どういう人なのか。それは、“霊”によって「心」を新しくされた者(2.29)、すなわち、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(3.20)ということをわきまえて、自分の罪を正しく悔い改めて、イエス・キリストが与えてくださる罪の赦しの恵みにのみ、よりすがる者ではないだろうか。
主は、このような者を決してお見捨てにならない。憐れみを求める者の祈りに、主は必ず応えて、今日も主の恵みのうちに歩ませてくださるのである。
祈りに覚える人 H・H姉
祈りに覚える教会 由布院教会(大分県由布市 黒田恭介牧師 https://yufuin-seiaihoikuen.jp/kyoukai)
宇佐教会(大分県宇佐市 竹井真斉牧師 https://usa-church.amebaownd.com/)
Comentarios