聖書 ローマの信徒への手紙7.13-8.17
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(8章15節)
律法とは縁を切って、新しい主人となって下さったキリストに結ばれて生きているのが、今の私たちキリスト者である、とパウロは語ってきた。しかし、そう聞くと人は一つの誤解をしてしまうかもしれない。それは、律法が「わたしにとって死をもたらすものとなった」(7.13)。つまり、律法が自分にとって悪いもの、不幸をもたらす元凶となっているのではないか、とする誤解である。しかし、パウロはこの考えを真っ向から否定する。「決してそうではない」(同)と。そして、この律法は善いものなのだが、人間の内に秘められている罪の正体を暴き出すために与えられたものなのだ、と語る。そうでもしないと、人間は自分の罪を知らなかったからである(7.8)。こうして、人は、自分の内に住んでいる罪のために、本当は自分がしたいと思っている善を行うことをせず、かえって望んでいない悪を行ってしまう、というジレンマ(葛藤)に一生苦しむことになるのである(7.15以下)。パウロ自身も、このジレンマに悩み、苦しんで、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と語っている。
しかし、この絶望的な苦しい状況を一気に解決へと一変させてくださったのが、聖霊のお働きであることを、パウロは第8章から語りはじめる。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(8.1)。肉の法則、罪の法則という縛りによって生涯もがき、苦しまなければならなかった私たちに、新しく霊の法則がもたらされたことによって一気に解決へと導かれた。まるで、この世から天国へと一気に移されたような出来事である。しかし、この出来事が起こっても、実際は目の前の光景はいつもと変わらないので、この恵みの出来事については、ただ信じる以外にない。
そこで、パウロは罪の法則から解放されて、新しく霊の法則、恵みの法則の中に入れられている証拠を示す。それが、「神の子とする霊を受けた」ということである。それは、「アッバ、父よ」という告白で明らかになる。神を「父よ」と呼ぶには、御子イエス・キリストの御霊が与えられなければならない。もし、そのように呼ぶことが出来るならば、あなたは罪の法則から解放されて、今やキリストの恵みの中に入れられているのだ、と語っているのである。だから、『雪ノ下カテキズム』という信仰問答には、私たちの最高の幸せは、このように主なる神を「父よ」と呼ぶことができることだ、と告白されているほどである。
今日も、神を「父よ」と呼ばせて下さる御霊に満たされて、主の恵みの中を歩んで行きたい。
祈りに覚える人 M・I兄
祈りに覚える教会 日向福島教会(宮崎県串間市 白石幹希牧師http://qsyu.tank.jp/miyazakichiku/hyugafukushima.htm
西都教会(宮崎県西都市 竹前篤牧師(代務者) http://qsyu.tank.jp/miyazakichiku/saito.htm)
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