聖書 ローマの信徒への手紙4.1-25
「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」(18節)
「信じる」とはどういうことだろうか。それを、信仰の父であるアブラハムが私たちに教えてくれている。彼がおよそ100歳、妻のサライが90歳の時、まだ二人の間に子どもがなかった。それは、この世の常識や考えからすれば、子どもが与えられるのは不可能であり、あり得ないことを意味していた。しかし、彼は「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」たのである。つまり、信じるとは、あり得ないこと、望むべくもないことが実現することを信じる、ということなのである。
では、それは要するに“奇跡を信じる”、ということと同じなのだろうか。確かに、この時のアブラハムの信仰は、奇跡を信じたのに等しいと思われる。だが、大事なのは“奇跡”を信じたことよりも、「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していた」(21節)ということなのだと思う。つまり、神の「約束」を信じることこそ、大事なのである。たとえ、それが世の常識や、自分の考えではあり得ないこととのように思われたとしても、それが神の約束なのであれば、それは必ず実現すると信じることこそ、真の信仰なのである。
神が約束しておられること。それは、この手紙の第11章25,26節に「秘められた計画」として記されてある。すなわち、「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」異邦人全体と全イスラエルが救われる、ということは、全人類が救われる、ということなのである。すべての者が、主イエスの恵みの下に立ち帰り、悔い改めて、福音を信じて救われる、ということなのだ。
これは、確かに人間の常識からすれば、あり得ないことである。しかし、これが主の約束であり、ご計画なのだとしたら、実現しないはずはないのだ。この目標に向かって、今日も一日、歩んでいこう。
祈りに覚える人 M・M姉
祈りに覚える教会 宮崎清水町教会(宮崎県宮崎市 山口英希牧師 http://qsyu.tank.jp/miyazakichiku/miyazakishimizucho.htm)
宮崎中部教会(宮崎県宮崎市 乾元美牧師 https://www.miyazakicentralchurch.com/)
都城城南教会(宮崎県都城市 岩住啓太牧師 http://ch.febcjp.com/2016/12/20/resp161220_01/)
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