聖書 ヨハネによる福音書15.1-27
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(5節)
ヨハネによる福音書第15章といえば、やはり、この「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という、主イエスの御言葉を真っ先に思い起こす。こどもさんびかにも、
「主イエスはまことのぶどうの木
わたしは つながる小枝です。
あふれるいのちを いただいてしっかり
わたしは 大きく そだちます。」
と歌われていて、恐らく、多くの人々に親しまれている主イエスの御言葉であると思う。
しかし、よくよく読んでみると、ここの主イエスのお言葉というのは、実はそれほど、誰にでも親しみやすい御言葉なのではないのではないか。たとえば、5節の後半には、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」とあるが、この主イエスの御言葉に「カチン」と来る人は多いだろう。さらに、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(6節)とまで言われる。今度は、カチンどころか「恐い」と感じる人も多いのではないか。
ところが、こどもさんびかの2番は、
「ちいさなぶどうは 幹なしに
大きなふさには なりません
そだてる神さま 手入れして
みのらぬ小枝を 切りすてる」
と歌われていて、これをこわいと思わずに、素直に喜んで歌っている子どもたちがいるのである。ここに、この主イエスのお言葉を喜んで聞くことのできるヒントがあるように思う。
結論を言ってしまえば、やはり「幼子のような信仰」がなければ、この「ぶどうの木」の譬えは、とうてい受け入れられない、ということである。幼子は、自分の弱さ、小ささを知っている。そして、主イエスの大きさと愛を知っている。その中に、自分を委ねることが、素直にできているのである。大人になると、この素直さがなくなってしまって、どこか抵抗を覚えてしまうのである。肩をいからせて歩き、虚勢を張り、無理をして、かえって自ら生きにくくしてしまう愚かな私たちなのである。
この御言葉とこどもさんびかを思い起こす度に、幼子のような信仰に立ち返る者でありたいと願わずにはおれないのである。
祈りに覚える人:A・S姉
誕生日の人(6月4日):Y・E兄
祈りに覚える教会:川内教会(鹿児島県薩摩川内市 日下部遣志牧師、戸田奈都子牧師 http://qsyu.tank.jp/kagoshimachiku/sendai.html )
串木野教会(鹿児島県いちき串木野市 藤田房二牧師 http://qsyu.tank.jp/kagoshimachiku/kushikino.htm)
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