聖書 ルカによる福音書9 .26
「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」
「神からのメシアです」(9.20)。ペトロは、主イエスから「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われたとき、そのように応えて信仰を言い表した。これが、主イエスに対する最初の信仰告白となった。教会は、この信仰告白をしたペトロ、すなわち「岩」の上に建てられている(マタイ16.18)。このように信仰を言い表すことが出来たペトロは、真に幸いであったと言わずにはおれない。
ところが、すべての人が、必ずしもこのような幸いを得るわけではない。むしろ、イエスさまは、「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」とここではっきりと言われている。これは、再臨の時の審きについて語っておいでになっておられるのである。そして、「恥じる」というのは、主イエスが人々の手に渡されて、苦しみを受け、人々からも、主なる神からも見捨てられ、呪われて殺されたこと、あの十字架の死について語っておいでになるのであろう。この十字架のキリストを恥じる者は、自分もキリストによって恥を受けることになる。なぜなら、その時、キリストはすべてのものよりも、はるかに高く、尊い存在として栄光に輝いて再臨されるからである。このような他に並ぶべきもないお方を恥じていたのだから、その恥が自分に返ってくるのは当然であろう。
この審きは、時代劇の水戸黄門の最後のシーンに似ているように思う。それまでは、この水戸光圀公をただの老人だと思って馬鹿にして、狼藉をはたらいていた者たちが、最後にはその正体を知らされて恥を受ける、というどんでん返しが毎回起こされるのである。ドラマでは胸がスカッとして終わるが、実際に主の審きで恥を受けて滅び行く者がいると思うと、しかも、それが自分の身内の者や、親しい友人だと思うと胸が痛む。
主の審きについては、我々はただ主ご自身にお任せする以外にないが、恥を受けた者が悔改める機会を主は与えてくださるに違いないと信じている。そして、悔い改めて、彼らがキリストに対して信仰を言い表し、讃美をして、父なる神に栄光を帰したとき、その隣でイエスさまが、そして、その周りには主の弟子たちがいて、助さん格さんのように微笑ましくその様子を見ているのかも知れない。そんなことを想像してしまう。
祈りに覚える人 A・N姉
祈りに覚える教会 潮江教会 高知県高知市 長谷川義牧師
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