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  • 執筆者の写真牧師

今日の朝祷会(2020年8月22日)

聖書 ルカによる福音書9 .47-48

「イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。『わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。』」

 主イエスがご自分の受難予告をなさったのに(44節)、弟子たちはその言葉の意味を理解することが出来なかった(45節)。そのことを象徴しているのは、その受難予告のすぐ後に、弟子たちの間で起こった議論の内容である。彼らは、「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」(46節)ということを話し合っていたのである。この議論は、このあとでも繰り返し起こっている(22.24)。つまり、結局はこのことが弟子たちにとって一番の関心事だったのである。イエスさまのことは、はっきり言って、二の次なのである。

 そこに、一人の子どもを立たせて、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と言われたのである。ここで大事なのは、「わたしの名のために」、と言われたことである。最も小さくて、最も弱い存在、人間の数に数えられないほどに低い存在、それが子どもであった。しかし、この子どもが最も大きく、最も強く、最も偉い存在として受け入れられるようになる。それはなぜか。この子どもがイエス・キリストの御名によって呼ばれるようになるからだ、と主は言われるのである。

 これは、もちろん、神の国における出来事である。この世で最も小さな自分のような者も、御子主イエス・キリストの御名によって、最も偉大な者として受け入れられるようになる。神の国の王子として迎えられるようになるのである。そのことを思うと、心が躍るような思いがする。しかし同時に、この身にあまる光栄は、主イエスのご受難があったからこそだと思うと、ただただ主に感謝せずにはおれないのである。

 明日は主の日の礼拝。この身にあまる光栄を体いっぱいに受けて、感謝の一週間を歩み始める出発点としたいものである。

祈りに覚える人 S・N姉

祈りに覚える教会 瀬戸キリスト伝道所 高知県高知市 竹村眞知子牧師

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