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執筆者の写真牧師

今日の朝祷会(2020年9月4日)

聖書 ルカによる福音書11.46

「イエスは言われた。『あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。』」

 不幸なのは、主イエスが指摘なさっている、この事実に本人が気づいていない、という点である。なぜなら、気づかない間は、悔改めることが出来ないからである。これが、いわゆる〈正しいことをしている人〉の陥りやすい不幸なのである。

 その〈正しいこと〉のもう一つの例として、「預言者たちの墓を建てている」(47節)ことが挙げられている。それは、先人を尊び、その働きを敬う行為であり、本来は聖書の「汝の父母を敬え」という十戒の第5戒にも通じる推奨されるべき〈正しいこと〉であるはずである。ところが、それは実は自分たちの先祖が行った預言者殺しという罪を覆い隠す偽善であることを主イエスは見抜いておられるのである。

 このように、我々は、善いこと、正しいことをしながら、実はそれが自分の罪を覆い隠すための偽善的な働きなのに、自分はそのことに全く気づかず、よいことをしているのだ、正しいことをしているのだ、と思いあがってしまっていることがあるのではないか。

 主イエスは、このような我々の偽善を鋭く見抜いて、これをずばりと指摘しておられるのである。自分の罪に気付きにくい人に、悔い改めの機会を与えるためである。

 だから、主イエスは、決して人の気づいていない罪までほじくり返して見せて、それで相手を打ち負かして満足感を覚えるようなサディストなのではない。そうではなく、むしろ、主イエスはそのようにして指摘なさったこの律法の専門家やファリサイ派の罪、ひいては我々の罪をも全部一人で引き受けて、その責任を負われたのである。そこが、「指一本もその重荷に触れようとしな」かった律法の専門家や、我々との違いなのである。主イエスのこの罪の指摘には愛があるのである。だからこそ、我々はそれによって悔改めへと導かれるのである。

祈りに覚える人 K・M兄

祈りに覚える教会 佐川教会 高知県高岡郡佐川町 黒田若雄牧師(代)

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